一昨日のことがあったので、今日はカミさんが休みを取ったということもあり、午前中は自分が、昼過ぎからはカミさんという担当で犬の面倒を見つつ、夕方にかかりつけのお医者さんに報告に行く予定を立てる。
夕方にお医者さんに行き、いろいろ話を伺って、結局利尿剤をがんがん行くしかないという話。とにかく腹水やらなにやらを排出させれば、体力の続く限りはなんとかなると。なるほど。とにかくそれならそれで。
もどって、利尿剤を飲ませる。じつは今朝からいつもは食べてるおやつも口にしなくなっていたので、お医者さんから教わった飲ませ方で。さいわい粒が小さく、うまく飲ませることができた。
で、薬が効くにはちょっとかかるってことで、部屋で待機。マンガなぞを読みつつ。
階段を声もなく駆け上がる音。ドアが開き、カミさんの青ざめた声。
「まるちゃん、死んじゃった」
狭い家の中を走った。もちろん、そういう可能性もお医者さんから示唆されてはいた。でも、さっきまで目に力はあったし、呼吸も苦しそうではあったが、姿勢を直せば持ち直し、利尿剤さえ効けばまた呼吸も楽になって、かりかりとか食べる気力がわいてくるはずだからと思っていたから、カミさんの言葉は、なんだか想像の域を超えたよくわからないものでしかなかった。
動かない犬を目の当たりにするまでは。
涎を吐き出し、半眼になって呼吸をしていない見慣れた犬の姿があった。触ると温かい。脈の感触さえある。もちろん鼓動のそれとはずいぶん違うのだが。しばらくさすったり、押したり、じっと耳を当てて音を聴いたりしたが、すべては終わりを示していた。
寂しい犬だった。沖縄で、ずっとひとりぼっちにさせられていた犬だった。血統書付きの犬だけが大切にされ、彼女はトレーラーの下に掘った穴の中で過ごしていた。2、3日に一度餌のためにくる前の飼い主をじっと待つ毎日だった。だからか、飼い主が乗っていたというバイクの音には敏感だった。
だから、最後の瞬間は、一緒にいてやりたいと思っていた。いや、それなら一緒に寝食を共にすればよかったのだが、それはできない程度の覚悟の甘さ、な。終わりが見えていればそれくらいできたんだろうが、まだ大丈夫だと思いこんでいた。カミさんもそうで、だから、鳴き声を聞いたような気はしたものの、油断していたのだそうだ。そりゃそうだ。いままでそういう「呼び出し」何度もあったし。
結局、薬をまあ本人にとっては迷惑なやり方で飲まされて、それが最後になった。
寂しかったかなあ。
最後くらい、群の仲間と一緒にいたかったんじゃないか。
犬がどこまで思考の分解能を深く持っていたかわからないが、だとしたら、酷いことだったなあ。
単なる感傷だとわかっていても、いつも陥る思考の堂々巡りだ。
お医者さんに連絡して、お礼を言いつつ近所のお寺を紹介してもらった。そのお寺がまた親切で、懇切丁寧に今夜から明日にかけてのことを教えてくれた。いや有料でとか、そういうのじゃなく。
明日送るために、お花を買ってきた。犬をむかえるために、庭に柵や生け垣を作ってくれた花屋さんだ。そこ以外にお花を頼むところを思いつかなかった。
それから夕飯を食べた。正直、飯を作る気力はなかったが、それ以上に外で食べる気にならなかった。楽な材料を偶然発見したり、それに使うための仕込みを昨日やってなかったら、牛丼とかにしてたかもしれない。まあなんにせよ飯を作り、献杯してお酒を飲んだ。
たかが犬だったが、彼女は間違いなく家族だった。その家族を自分は、自分たちは幸せにしてやれただろうか。
一緒に暮らす命を失うたびに、繰り返しそう強く思うのだが。
ナノは、動かない犬を目の当たりにして号泣していた。そういう子供に育ってくれて、自分はほんの少し誇りに思う。
という文章を、タイトルのラジオ番組聴きながら書いていたが、いたたまれずいま無音。
ご冥福をお祈りします。きっとそこまで世話をしてもらって幸せだったと思いますよ。うちのももう13歳かつ病気持ちなので、そろそろ覚悟しないといけないかなと思っています。
ありがとうございます。ごぶさたしております。
動物を飼うということは、死を間近に感じることでもあるということを、ここ1、2年痛切に思い知らされています。子供の頃、親が動物を飼いたくないと言っていた理由がよくわかりました。子供はそこまで面倒見ませんからね、普通。
それにしても、親の介護はほぼしないで済んだんですが、ここへきてそれなりにヘビーな介護を経験することになるとは思いませんでした。つらいことでしたが、自分としては経験しておいて悪いことではなかったとも感じています。